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       しんかん
伏見天皇宸翰御願文(正和五年十一月廿五日)

36.4×302.9㎝

鎌倉時代・正和5年(1316) 彩箋墨書 重要文化財


正和2年に第一皇子である後伏見天皇へ院政を継承して出家した伏見天皇(1265~1317、在位1287~97)は、翌年の三月、春日大社の神木が多武峰(談山神社)との争いの解決を訴えるため入洛すると、十一月に帰社するまでの二百余日にわたり、世親(5世紀 インド)の教えを30の詩句で簡潔に示した『唯識三十頌』(漢訳:玄奘)の書写を日課としました。


あらゆる存在や現象は人びとの心の深層にある「阿頼耶識(あらやしき)」が映し出したものと説く「唯識」は、藤原家の氏寺・興福寺をはじめとする法相宗の根本をなす思想であり、氏神である春日社でも12世紀はじめにはこれを講賛する唯識会がおこなわれるようになっていました。


さらにその翌年の冬には紺色に染めた紙に金泥で『妙法蓮華経』56巻を写し、正和5年、これを『唯識三十頌』276巻とともに春日大社へ奉納しました。


この宸翰(天皇自筆の書)は11月25日に興福寺の実聡僧正らを招いておこなった供養における願文で、奉納の経緯や春日大明神の徳に対する讃辞を、対句による格調高い漢文体で記しています。


「専ら政道の無為を祈り、又去秋より常に病気有り、願わくは以て一道の霊応を得、孽(わざわい)を未兆に除秡せん」と、世の平和と政治の安定、自身の病気平癒を願って書写したことがわかります。


1字1字丁寧につづられた願文は、やわらかな筆画のなかにも力強さが感じられ、能書家として知られる伏見天皇晩年の筆跡を伝えています。


雲母を引いた料紙には、型紙により春日社ゆかりの藤花を銀泥の一部に金泥を重ねて散らします。


願文に込めた祈りもむなしく伏見天皇は翌年に崩御し、また父である後深草天皇のころからはじまった皇統の分裂は、こののち「南北朝の動乱」をまねくこととなります。

(川見)


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