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   かざん にゅうく
渡辺崋山 乳狗図

120.8×50.2㎝
江戸・天保12年(1841)絹本淡彩

奇怪なかたちをした太湖石を背にし、子犬に乳をやる母犬を描いたのは、天保10年(1839)の「蛮社の獄」に連座した三河田原藩の江戸詰家老・渡辺崋山(1793~1841)です。子犬は無邪気に乳を貪るものの、母犬の目にはどことなく警戒感が浮かんでいます。本図はまさに亡くなる直前の同12年8月13日に描かれたとみられます。

崋山は国元・田原での軟禁中にあっても、生活費捻出のために絵画を描き続けなければなりませんでした。その態度を快く思わなかった藩の人間により、「幕府要人の忌憚に触れ、藩主にも累が及ぶ」との風聞が流され、同年10月11日、ついに自らの命に終止符を打つこととなります。年記は蟄居中の作画をはばかって遡及させたものです。

画題自体は崋山の創案でなく、北宋の文人皇帝・徽宗の筆とされる「乳犬図」が転写されており(鈴木芙蓉『画図酔芙蓉』)、そもそも中国発であったとわかります。これを遡っていくと「乳狗伏鶏」という故事にたどり着きます。

『列女伝』「魏節乳母」には、魏の公子を匿って命を断った乳母の話が伝えられます。「授乳中の母犬はトラをも打ち、卵を抱く母鶏はタヌキをも打つように、慈母というものは命がけで子を守る」と、喩えを交えつつその行為を称賛する内容となっています。

「画は単なる慰みものではなく、世に役立つものでなければならない」との考え方を崋山は持っていたことから、本図にも教訓的意義(鑑戒)が込められているとみなければなりません。

「乳狗伏鶏」の故事を知っていた崋山が授乳する母子の犬を描いたのは、西洋列強が虎視淡々と狙う日本の行く末を案じつつもすでに覚悟を決め、妻に対して渡辺家の後事を託す思いからだと解釈できるでしょう。それから2ヶ月後、崋山は自らの責任をとって命を断ち、帰らぬ人となります。ペリーが来航する10年あまり前のことでした。
(杉本欣久 東北大学)
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