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脇指 無銘(名物 籠手切郷)

刃長47.6cm 重364g
鎌倉時代(14世紀)


『享保名物帳』に掲載される稲葉家伝来の名物で、腕を護る「籠手」ごと断ち切るほどの斬れ味を讃えた称号とみられます。

現状はなかほどで反りのついた中鋒の脇指で、やや肌立った板目の地鉄はよく詰み、高い焼入れ温度により異なる組織が粒状にみえる“地沸(じにえ)”がつきます。
ゆるやかに波うつ“のたれ”にやま形の“互の目”がまじった刃文にも粒状の“沸”がよくつき、それが筋状につらなった“砂流”や“金筋”が入っています。

差裏の鎺(はばき)下には「ウーン」の梵字を彫っており、その位置からもとは太刀であったものを大きく磨り上げたと推測されます。
二つ開けた目釘孔のあいだには短い直線の彫りがあり、剣や樋の彫刻があった名残かもしれません。
梵字「ウーン」は短刀「徳善院貞宗」(三井記念美術館)などにもみられ、不動明王をあらわす種子(種子真言)である可能性が高いと考えられています。

茎の表に「コテ切義弘 本阿(花押)」の金象嵌、裏に「稲葉丹後守所持之」の銀象嵌があり、小田原城主であった稲葉正勝(1597~1631)が所有し、本阿弥家11代光温(1603~67)により郷(江)義弘の作と鑑定されたことがわかります。

義弘は鎌倉末期から南北朝時代にかけて越中国(現在の富山県)で活動した刀工で、江戸時代には吉光、正宗とともに三作に挙げられ、『享保名物帳』にも多数収録されるものの、信頼できる在銘の作品は皆無で、すべて本阿弥家によって極められたものです。

この鑑定を光温が行ったのは寛文2年(1662)のことで、その後、宝永2年(1705)12月には細川家、享保3年(1718)には稲葉家に対して折紙が発行されています。
天和元年(1681)に正勝の子・正則から孫・正往(正通)への継承が確認できることから、短刀「鳥飼来国次」とともに正往が細川綱利に贈り、両者の隠居後に再び稲葉家へ戻されたとみられます。
(川見)



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