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りゅうぐうもんきょう

龍宮文鏡


面径11.2㎝/10.9㎝

室町時代(15世紀)


海原をゆく帆掛け船の眼前に、鴟尾をかかげた中国風の楼閣と松が茂る島があらわれます。
これを海神の住む龍宮とみて、龍宮鏡とも称しています。
 
月の出た空に雲がたなびく描写は蓬莱鏡にもよくみられる仙境であることを暗示する表現であり、中国の神仙思想と結びつく吉祥的な意匠と考えられます。
松葉の表現をみると、やまと絵において伝統的な笠形だけでなく、針葉を放射状に連ねて車輪形とした宋代以降の絵画表現を採用しています。
 
亀形の鈕や雀に似たつがいの小鳥が飛ぶのは中世和鏡のお決まりであるが、火焔宝珠を中央上に配するのは特異といえます。
仏典によれば、宝珠(如意宝珠、摩尼宝珠)は龍王あるいは摩竭魚(マカラ)の頭にあり、これを得ればどんな願いもかなうとされます。
『今昔物語集』(平安末期成立)には『大唐西域記』(唐 646年成立)の逸話をもとにした「釈種(釈迦族)龍王の聟と成れる語」があり、龍宮はきらびやかな「七宝の宮殿」と描写されます。
 
中世における龍宮訪問譚としては、三井寺の鐘の縁起として語られる俵藤太の伝説(『太平記』)がよく知られています。
俵藤太こと藤原秀郷が琵琶湖の底にある龍宮城におもむき、龍王の求めに応じてその宿敵を倒すと、「将軍となる子孫が多い」との予言を与えられ、礼品として得た俵の中身や絹は尽きることがなかったといいます。
室町時代には俵を運ぶ船の意匠の和鏡があり、これも龍宮をはじめとする仙境の思想にもとづき、人びとの立身出世や富貴への願いを込めたものと考えられます。
 
なお、龍宮といえば浦島太郎の昔話を思い浮かべる人も多いと思いますが、そのもととなった『日本書紀』や『丹後国風土記』の伝説で瑞江浦嶋子が訪れたのは龍宮城ではなく、海に浮かぶ「蓬山(蓬莱山)」でした。
 (川見)

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