本文へ移動
げいげんろ     しょくとふ
倪元璐 草書蜀都賦

縦156.5cm 横49.5cm
明末期(17世紀前半)

明代末期の官僚・倪元璐が、西晋の左思「蜀都賦」の一節を書いたものです。
 
行書と草書を交えた流麗な連綿体(つづけ字)で、行間を広く仕上げています。頻繁に墨をつぎ滲んで書き始めますが、各字の末尾は渇筆となり、字の重心が左上に偏って緩急のリズムを生んでいます。前の字の渇筆線に重ねるように新しい字を書き始めるなど、行の流れを出す工夫が見られます。長い縦画は筆圧に抑揚をつけており、強調された左払いも個性的です。
 
倪元璐は天啓2年(1622)の進士で、明朝の滅亡直前に要職に就きましたが、李自成の乱で北京が陥落した際、崇禎帝の後を追い殉死しました。本作は「蜀都賦」のなかでも民の武勇を讃える箇所を書いており、この一節に託して明朝の奮起を訴えようとしたのかもしれません。同世代の連綿草の名手でも、清朝に寝返った王鐸などは後世に評価を落とされたのに対し、忠臣・倪元璐の書は技術を超えた高い精神性を備えるものとして鑑賞されました。
 
本作には頼支峰・村田香谷・山本竹雲・江馬天香・斎藤誠軒の箱書きがあり、明治5年(1872)までに日本に伝わったことがわかります。頼支峰の父・山陽は『山陽題跋』・『山陽詩鈔』で倪元璐の人生に思いをはせ、その体現としての書を称賛しています。倪元璐の変化多端な書は、混沌とした時代に信念を貫いた人物像と重ねられ、日本においても尊重されたことがうかがえます。

釈文:若乃剛悍生其方、風謠尚其武。奮之則賨旅、翫之則渝舞。銳氣剽於中葉、蹻容世於樂府。元璐似侍莓辭丈。
(飛田)
TOPへ戻る