短刀 銘 吉光

短刀 銘 吉光


刃長23.6㎝ 重124g

鎌倉時代(13世紀)


京都で活動した粟田口派の刀工で、正宗や郷義弘とともに最高級の評価を受けた藤四郎吉光作の短刀です。
平造、三つ棟でわずかに内反りがあり、表に護摩箸、裏には腰樋を彫っています。やや長く作った茎には目釘孔が2つあり、両者とも一方が四角く飛び出た特徴的な形状となっています。
つんだ小板目の地肌には粒状の地沸(じにえ)がこまかにつき、直刃の刃文は、鋒でわずかに掃きかけて、小さく弧をえがき棟側に返ります。刃中には小沸がつき、それが筋状につらなった砂流や金筋がわずかにかかります。地との境にあたる匂口は比較的明瞭で、明るく冴えています。
 
付属する大正頃の書付から丸亀藩主京極家伝来とわかり、享保19年(1734)「御刀脇指御印帳」(丸亀市立資料館)掲載の「吉光御小脇指」にあたると考えられます。慶長5年(1600)6月18日、上杉征伐のため大坂を出立した徳川家康は、大津城の京極高次を訪れた際、「密に約したまふ事ありて、吉光の小脇指をたまひ」ました(『寛政重修諸家譜』巻419京極高次)。このとき贈られたのが本刀と推測されます。三か月後、高次は関ケ原の戦い当日まで9日間にわたって大津で籠城し、毛利元康を総大将とする西軍を足止めしたことで、東軍勝利に大きく貢献しました。当時、西軍は豊臣家と縁の深い高次が自軍に与すると期待していたため、大津城で進軍を阻まれたことは大きな誤算となりました。
 
金工埋忠家の記録『埋忠銘鑑』によると、元和2年(1616)11月、高次の長男・忠高の依頼により、京極家の名物として名高い「にっかり青江」とともに、埋忠寿斎が金具(鎺)を新調したと記されています。
 
大正4年(1915)「所蔵品台帳 京極別邸」(丸亀市立図書館)にも掲載され、大正7年2月に丸亀から東京へ持ち帰ったと追記されています。また、本刀付属の書付によると、この年3月に二重鎺の上貝新調とともに、刀身の研ぎが行われたようです。同年11月の同家売立に出品の記録はありませんが、このころに流出したとみられ、昭和15年(1940)2月には黒川福三郎(三代幸七)所有として重要美術品に認定されています。
延宝4年(1676)3月3日付「代金子三拾枚」の折紙および「吉光」の文字を刺繍した「紺地蝶桐唐草文様金襴刀袋」が付属します。
(川見)
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