浜松藩播磨飛び地領 銀札

浜松藩播磨飛び地領 銀札 

五匁札:16.3㎝×4.6㎝ 一匁札:15.0㎝×4.0㎝ 三分札:13.9㎝×3.6㎝ 二分札:12.5㎝×3.3㎝
安政3年(1856)発行


安政3年(1856)に、浜松藩の播磨飛び地領(現兵庫県加東市ほか)で発行された銀札(額面が銀表示の藩札)です。
表面の上段は旭日と老松の図像、中段は九畳篆体(篆書体の一種で、官印によく用いられた)で書かれた吉祥句で額面の三方を囲み、下段は引替所名の左右に昇り龍の図像を配します。裏面は九畳篆体の吉祥句でほぼ全面を埋め尽くしますが、中央の領名・札元名の上の、筆記体のアルファベットが目を引きます。
この単語は「Voordeelig」、「経済の・経済的な」という意味のオランダ語です。
当時、蘭学(進んだ西洋の技術をオランダ語文献から学ぶ学問)は盛んだったものの、アルファベットを読み書きできる人は少なく、また九畳篆体も判読性が低いため、なじみの薄い文字による偽造抑止と考えられます。藩札一般によくみられる工夫ですが、なぜ九畳篆体だけでなく、オランダ語も選ばれたのでしょうか。
日米和親条約調印(1854)以降、遠州灘防備を任とした浜松藩では、播磨飛び地領代官や大阪蔵屋敷詰郡奉行を歴任していた岡村黙之助(1803~73)が、執政に次ぐ地位の側用人兼旗奉行に抜擢され、大阪で藩財政を支えながら改革を推進していました。彼は浜松での新田・林業開発を推進するほか、大阪・長崎で西洋兵学を修めた二人の息子たちや、播磨飛び地領出身で彼らと適塾同門の蘭学者、村上代三郎(1823~82)を登用して軍制改革を行っていました。銀札のアルファベットは、彼ら蘭学者たちによる藩政改革の象徴とみなすことができます。
やがて戊辰戦争(1868)が始まると黙之助は、開明派ゆえに佐幕とみなされたのか、息子たちともども浜松藩から閉門の処罰をうけます。維新後、息子たちは新政府に奉職して浜松を去り、黙之助は自ら開拓した村落に隠遁して二度と表舞台に姿を現すことはありませんでした。
黙之助たちの改革の成果は幕末の激動に飲み込まれ、歴史の影に消えてしまいました。ただこのアルファベットが、浜松藩六万石の未来を蘭学に託した、彼らの思いを今に伝えているのです。

(伊藤)

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