永楽大典
永楽大典
明初期(15世紀初頭)編纂 明中期(16世紀半ば)抄写
50.3×30.0㎝
明の永楽帝の勅命により、永楽元年(1403)から5年かけて編纂された百科事典『永楽大典』の写本です。全22877巻のうち第8569・8570巻にあたり、113頁から成ります。各頁には8行の紅格を引き、見出しを大字、説明を小字で整然と書写しています。
『永楽大典』は、当時存在した様々な書物から特定の語(本冊冒頭では「放生」)にまつわる記述を集成して作られました。出典は赤字で記され、一目で分かるようになっています。
この膨大な事典は完成後しばらく1セットのみ保管されていました。しかし、嘉靖36年(1557)の宮中火災を契機に、編纂時と同じく再び5年がかりで全巻を筆写し、副本が作られました。原本はその後失われ、現在世界各地に伝わる約800冊はすべてこの副本と考えられています。さらに清代、『四庫全書』編纂の際には『永楽大典』に引かれた古書の断片から、すでに失われていた書物の復元が図られました。その結果、『旧五代史』など500種もの佚書が再生したのです。
嘉靖年間抄写時の奥書によると、本冊の書写は中書舎人の李鳳が担当したようです。宮廷の編纂事業は膨大な冊数を統一書体で筆写する必要があり、『永楽大典』の現存諸本もほぼ同じ書風を示します。この書風は永楽帝が重用した書家・沈度の楷書に由来する明代の正式書体「台閣体」で、160年後の副本書写官もこの書風を厳格に継承するよう訓練されていました。
本冊を収めた桐箱には、山本竟山による隷書の題字があります。これが書かれた大正12年(1923)には、すでに二代黒川幸七が所有していました。大正元年、辛亥革命を逃れた官僚・董康が『永楽大典』を17冊ほど携えて来日し、内藤湖南周辺の所蔵家が各一本を購入したと伝えられます。本冊もその一本だったのかもしれません。
『永楽大典』は、当時存在した様々な書物から特定の語(本冊冒頭では「放生」)にまつわる記述を集成して作られました。出典は赤字で記され、一目で分かるようになっています。
この膨大な事典は完成後しばらく1セットのみ保管されていました。しかし、嘉靖36年(1557)の宮中火災を契機に、編纂時と同じく再び5年がかりで全巻を筆写し、副本が作られました。原本はその後失われ、現在世界各地に伝わる約800冊はすべてこの副本と考えられています。さらに清代、『四庫全書』編纂の際には『永楽大典』に引かれた古書の断片から、すでに失われていた書物の復元が図られました。その結果、『旧五代史』など500種もの佚書が再生したのです。
嘉靖年間抄写時の奥書によると、本冊の書写は中書舎人の李鳳が担当したようです。宮廷の編纂事業は膨大な冊数を統一書体で筆写する必要があり、『永楽大典』の現存諸本もほぼ同じ書風を示します。この書風は永楽帝が重用した書家・沈度の楷書に由来する明代の正式書体「台閣体」で、160年後の副本書写官もこの書風を厳格に継承するよう訓練されていました。
本冊を収めた桐箱には、山本竟山による隷書の題字があります。これが書かれた大正12年(1923)には、すでに二代黒川幸七が所有していました。大正元年、辛亥革命を逃れた官僚・董康が『永楽大典』を17冊ほど携えて来日し、内藤湖南周辺の所蔵家が各一本を購入したと伝えられます。本冊もその一本だったのかもしれません。
(飛田)


