黽池五瑞図下題名 翁方綱跋本
黽池五瑞図下題名 翁方綱跋本
後漢・建寧4年(171)刻 清・嘉慶15年(1810)跋
50.4×22.8㎝
漢代に甘粛省成県の天上山崖壁に刻まれた「黽池五瑞図」の下にある「図下題名」の拓本です。
天上山には220×340㎝ほどの広い崖面に文字と図像が刻まれており、左半分は隷書の古典「西狭頌」、右半分は黄龍などの図像を描く「黽池五瑞図」です。この拓本はその図の下にある小さな添え書きの部分です。「西狭頌」「黽池五瑞図」は書道史や考古学においてよく知られていますが、「図下題名」はあまり有名でなく、拓本も希少です。
漢代には山道の整備記念として粗い岩壁に直接文字を刻むことがあり、同時期の洗練された隷書碑とは異なる素朴な書風を示します。「西狭頌」本文によると、この摩崖は建寧四年(171)、武都太守・李翕が峡谷の桟道を修復した記念に作られました。文中には李翕が以前、河南省黽池でも道路整備を行い、その善政に天が感応して瑞祥が現れたとあり、「黽池五瑞図」はこれを図示したものです。「図下題名」は、「黽池五瑞図」の制作関係者を列挙したものと考えられます。
清代にはこうした石刻文字の研究が盛んになり、拓本はその重要な手掛かりとなりました。この拓本周囲の題跋は、清代中期の代表的な金石学者・翁方綱によるものです。彼は『両漢金石記』において「五瑞図の下に題名3行があるというが、未見である」と述べていました。その後、同世代の学者・桂馥から拓本を譲られ、2年後、この拓本を得ました。そこで、先に入手していた桂馥旧蔵本の桂馥の題記を、本作の表具上部にも模写しました。この題記は隷書で書かれ、拓本の文字を見やすく起こしています。しかし、翁方綱は表具下部の跋において「桂馥の釈文は見やすい字しか拾っていない。自分は新たに三文字を読み取った」といいます。ここには摩滅した拓本からも石刻文字の情報をすくい取ろうとする執念とともに、同世代の学者への競争心も窺えます。
翁方綱の跋は一部同文のものが複数現存し、いくつか写されたことがわかります。本作にはさらに羅振玉の題箋と長尾雨山の箱書も付属し、両者ともこれを稀覯資料として珍重した様子が窺えます。
漢代に甘粛省成県の天上山崖壁に刻まれた「黽池五瑞図」の下にある「図下題名」の拓本です。
天上山には220×340㎝ほどの広い崖面に文字と図像が刻まれており、左半分は隷書の古典「西狭頌」、右半分は黄龍などの図像を描く「黽池五瑞図」です。この拓本はその図の下にある小さな添え書きの部分です。「西狭頌」「黽池五瑞図」は書道史や考古学においてよく知られていますが、「図下題名」はあまり有名でなく、拓本も希少です。
漢代には山道の整備記念として粗い岩壁に直接文字を刻むことがあり、同時期の洗練された隷書碑とは異なる素朴な書風を示します。「西狭頌」本文によると、この摩崖は建寧四年(171)、武都太守・李翕が峡谷の桟道を修復した記念に作られました。文中には李翕が以前、河南省黽池でも道路整備を行い、その善政に天が感応して瑞祥が現れたとあり、「黽池五瑞図」はこれを図示したものです。「図下題名」は、「黽池五瑞図」の制作関係者を列挙したものと考えられます。
清代にはこうした石刻文字の研究が盛んになり、拓本はその重要な手掛かりとなりました。この拓本周囲の題跋は、清代中期の代表的な金石学者・翁方綱によるものです。彼は『両漢金石記』において「五瑞図の下に題名3行があるというが、未見である」と述べていました。その後、同世代の学者・桂馥から拓本を譲られ、2年後、この拓本を得ました。そこで、先に入手していた桂馥旧蔵本の桂馥の題記を、本作の表具上部にも模写しました。この題記は隷書で書かれ、拓本の文字を見やすく起こしています。しかし、翁方綱は表具下部の跋において「桂馥の釈文は見やすい字しか拾っていない。自分は新たに三文字を読み取った」といいます。ここには摩滅した拓本からも石刻文字の情報をすくい取ろうとする執念とともに、同世代の学者への競争心も窺えます。
翁方綱の跋は一部同文のものが複数現存し、いくつか写されたことがわかります。本作にはさらに羅振玉の題箋と長尾雨山の箱書も付属し、両者ともこれを稀覯資料として珍重した様子が窺えます。
(飛田)


