刀 無銘(伝長義)
かたな むめい でんながよし
刀 無銘(伝長義)
刃長68.9㎝ 重707g
南北朝時代(14世紀)
幅が広くやや反りの浅い刀で、鋒が大きく、刀身の表裏には棒樋を茎尻まで入れます。
よく詰んだ板目肌はところどころ少し流れるように見え、黒っぽい線状の「地景」が入る一方で、白く光る「映り」がうっすらと見えます。
「丁子」に「互の目」がまじった刃文は高低の変化が大きく、全体的に幅が広いのが特徴です。
刃先からは線状の「足」や木の葉状の「葉」といった模様が入り、「砂流し」がかかっています。匂口(刃と地の境目)は明るく澄んでおり、匂出来ですが小さな粒状の沸(にえ)がついています。
このような作風から、本刀は南北朝時代の備前国長船の刀工で、正宗の弟子ともされる長義の作と目されてきました。
茎に「生駒讃岐守」の金象嵌銘があり、天正19年(1591)に讃岐守に叙された武将・生駒一正(1555~1610)の愛刀とみられます。
一正は織田家に仕えた生駒親正の長男として生まれ、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは父と異なる東軍に加わり、翌年家督を継承して讃岐高松17万1800石の藩主となりました。
生駒家の記録『讃羽綴遺録』(天保4年)によると、一正は晩年、「讃岐守」と称する所有刀を短く磨上げ、棒樋と「生駒讃岐守」の金象嵌を入れさせたといいます。
これは本刀を指すとみられ、不動明王を表す「カンマン」とみられる梵字(種子)の右半分が、後から入れた棒樋によって消えています。
生駒家は寛永17年(1640)、一正の孫にあたる4代目高俊が生駒騒動によって改易となり、出羽矢島1万石を与えられました。
さらに5代目高清が弟に2000石を分知したため、以後は8000石の交代寄合として存続しました。
本刀に付属する拵の金具(縁)には「生駒車」の家紋があしらわれており、同家で大切に伝えられたことが窺えます。
江戸後期の鑑刀家・土屋温直による『土屋押形』にも、「生駒家重代」として収録されています。
よく詰んだ板目肌はところどころ少し流れるように見え、黒っぽい線状の「地景」が入る一方で、白く光る「映り」がうっすらと見えます。
「丁子」に「互の目」がまじった刃文は高低の変化が大きく、全体的に幅が広いのが特徴です。
刃先からは線状の「足」や木の葉状の「葉」といった模様が入り、「砂流し」がかかっています。匂口(刃と地の境目)は明るく澄んでおり、匂出来ですが小さな粒状の沸(にえ)がついています。
このような作風から、本刀は南北朝時代の備前国長船の刀工で、正宗の弟子ともされる長義の作と目されてきました。
茎に「生駒讃岐守」の金象嵌銘があり、天正19年(1591)に讃岐守に叙された武将・生駒一正(1555~1610)の愛刀とみられます。
一正は織田家に仕えた生駒親正の長男として生まれ、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは父と異なる東軍に加わり、翌年家督を継承して讃岐高松17万1800石の藩主となりました。
生駒家の記録『讃羽綴遺録』(天保4年)によると、一正は晩年、「讃岐守」と称する所有刀を短く磨上げ、棒樋と「生駒讃岐守」の金象嵌を入れさせたといいます。
これは本刀を指すとみられ、不動明王を表す「カンマン」とみられる梵字(種子)の右半分が、後から入れた棒樋によって消えています。
生駒家は寛永17年(1640)、一正の孫にあたる4代目高俊が生駒騒動によって改易となり、出羽矢島1万石を与えられました。
さらに5代目高清が弟に2000石を分知したため、以後は8000石の交代寄合として存続しました。
本刀に付属する拵の金具(縁)には「生駒車」の家紋があしらわれており、同家で大切に伝えられたことが窺えます。
江戸後期の鑑刀家・土屋温直による『土屋押形』にも、「生駒家重代」として収録されています。
(川見)


