伊予大洲藩 銀札 

伊予大洲藩 銀札 

壹匁札:16.0㎝×4.3㎝ 五匁札:16.3㎝×4.2㎝ 拾匁札:16.3㎝×4.3㎝
慶応4年/明治元年(1868)発行

大洲藩(愛媛県大洲市周辺)が慶応4年(1868)に発行した銀札(額面が銀表示の藩札)です。着色した厚手の短冊型の紙に、額面や藩・札元・発行年のほか、十二支・宝船・寿老人・登竜門・鶴・亀などの図像が印刷されています。こういった縁起の良い図像や漢文・漢詩は藩札によくみられるもので、細密な彫刻や庶民になじみのない文章による、偽造抑止の工夫と考えられています。そんな中、異彩を放っているのが、表面の「神代文字(じんだいもじ)」と、裏面の万葉風の長歌です。


神代文字は、江戸時代の国学者らが「古代日本特有の文字」と主張し(現代国語学では否定)数種類あります。壹匁札は「あなめてた(ああ、めでたい)」、五匁札は「ワナメテタ(ああ、めでたい)」、拾匁札は「あやにたふとし(奇に貴し)」とそれぞれ読めます。


従来はこの神代文字も偽造抑止が目的と考えられてきました。ですが裏面の長歌と照らし合わせると、違った事情が見えてきます。現代語訳はこうです。


「天雲が地面に伏して見える地平線の果てまで、谷蟆(たにくぐ:ヒキガエル)が這いわたってゆく国土の極みまで、日本全国すべてが朝廷にお仕えするようにと、身を慎んでその日を待とう」
この長歌と神代文字の使用とに照らし合わせると、大洲藩は、国学の勤王思想に基づいて朝廷の統治を待ち望むという意思をこめた銀札を、戊辰戦争の年
(慶応4年は9月に明治に改元)に発行していた、ということになるのです。


大洲藩の国学塾「古学堂」は、岩倉具視に影響を与えたといわれる国学者矢野玄道(1823〜87)や、版籍奉還後の明治3年(1870)に大洲県大参事となった山本尚徳(1826~1871)といった人材を幕末から明治にかけて輩出していました。国学の勤王思想の強い影響下にあった幕末の大洲藩の政治・思想状況が、この銀札のデザインに反映されているのです。

(伊藤)

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