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戸隠切(妙法蓮華経序品第一断簡)

彩箋墨書 32.2×9.7
平安末期(12世紀)


『妙法蓮華経』は後秦の弘始八年(406)、鳩摩羅什が漢訳した仏典で、女人成仏や写経の功徳を説くことから広く浸透し、日本でも特に好んで写されました。

本品はその序品第一を書した5行分の断簡で、1行8基の宝塔を雲母摺りし、1基に1字をのせる「一字宝塔法華経」の形式を取ります。これは経文そのものが仏身であるという法華経の教えを体現したもので、平安末期に流行しました。紋様を雲母摺りで表す装飾は平安中期に盛んに請来された北宋料紙(唐紙)の技法で、12世紀には国産化されました。

書体は写経には珍しい行書で、右上がりで扁平な字形と極端な線の肥痩が特徴です。同種の紙と書風からなる経典は長野県戸隠神社に4巻あり、他は断簡として各地に分蔵されています。これらは「戸隠切」の名で珍重され、聖徳太子筆と伝えられてきました。

しかし、この書風は平安末期の藤原定信(1088~1156頃)のもので、「戸隠切」を彼の真筆とする意見もあります。藤原定信は三蹟の一人・行成を祖とする世尊寺家の第五代当主です。この家は代々能書を輩出し、定信も天皇家や摂関家の貴顕から多くの文書の清書を請け負いました。

定信の書風は初代・行成ではなく、第三代・伊房を基礎としています。傾きが強く豪快な伊房の書は、行成とは似ておらず、蘇軾に代表される北宋の書を学んだ可能性も指摘されています。定信はこれをさらに速写風に改め、一層個性的な書風を作り上げました。

仁平元年(1151)、定信は日本で初めて一筆一切経(一人で全ての経典を書き上げること)の偉業を成し遂げました。23年ががりのこの大事業は、時の左大臣・頼長が定信を仏のように礼拝したというように(『台記』仁平二年七月二日条)、大変注目を集めていたようです。定信の速写の書風は、この事業にあたって大量の写経をこなした経験から形成されたと考えられています。

(飛田)

釈文:……妙法。是妙光法師。悉皆能受持。仏説是法華。令衆歓喜已。尋即於是日。告於天人衆。諸法実相義。已為汝……



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