刀 銘 「三ツ葵紋」以南蛮鉄於武州江戸越前康継/本多飛騨守所持「立葵紋」二ツ胴落末世剣是也
刃長74.0㎝ 重956g
江戸時代(17世紀)
江戸時代(17世紀)
大きなきっさきで反りが浅く、身幅が広い豪壮な姿の刀です。
地鉄は板目肌が流れてやや肌立ち、地沸(ぢにえ)がつきます。
大乱れに丁子が交じり、飛焼(とびやき)の入った華やかな刃文で、足や葉、砂流が入って刃中にも沸がよくつきます。
刀工越前康継(1554~1621)は近江国坂田郡下坂(現長浜市)出身で下坂市左衛門と称しました。
越前で家康の次男である結城秀康に抱えられ、慶長10年(1605)頃には家康・秀忠の御前で鍛刀を披露し、葵紋と「康」字、五十人扶持を賜りました。
その後、大坂の陣で焼身となり刃文を失った豊臣方の名刀の再刃(焼き直し)を命じられたとも伝えられます。
本作の茎(なかご)には三つ葵紋とともに長い銘を刻みます。
そこにはまず、「南蛮鉄」を用いて江戸で製作したとあり、インド産のダマスカス(ウーツ)鋼など貿易で輸入した素材を使用したことがわかります。
差し裏の銘には、本多飛騨守こと本多成重(1572~1647)の所持刀であることと同家の立葵紋があります。
成重は徳川家に仕えた本多重次の長男で、康継の後援者であったらしく、同じような銘を刻む作例が多く知られています。
天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの後、豊臣家の養子(人質)となった秀康に従っており(成重は翌年浜松に戻る)、結城秀康とは幼少よりつながりがありました。
また、結城家の養子となり越前北ノ庄68万石を賜った秀康の死後、重臣が対立して越前騒動が勃発すると、慶長18年(1613)に付家老として越前丸岡4万石を賜り、秀康の子忠直を補佐することとなりました。
成重が康継に数多くの注文を行ったのはこのような関係性からであったとみられます。
銘にはさらに、試刀において二つの死体を重ねた「二つ胴」を斬り落とした業物であり、後世まで伝えるべき「末世剣」であると刻みます。
地鉄は板目肌が流れてやや肌立ち、地沸(ぢにえ)がつきます。
大乱れに丁子が交じり、飛焼(とびやき)の入った華やかな刃文で、足や葉、砂流が入って刃中にも沸がよくつきます。
刀工越前康継(1554~1621)は近江国坂田郡下坂(現長浜市)出身で下坂市左衛門と称しました。
越前で家康の次男である結城秀康に抱えられ、慶長10年(1605)頃には家康・秀忠の御前で鍛刀を披露し、葵紋と「康」字、五十人扶持を賜りました。
その後、大坂の陣で焼身となり刃文を失った豊臣方の名刀の再刃(焼き直し)を命じられたとも伝えられます。
本作の茎(なかご)には三つ葵紋とともに長い銘を刻みます。
そこにはまず、「南蛮鉄」を用いて江戸で製作したとあり、インド産のダマスカス(ウーツ)鋼など貿易で輸入した素材を使用したことがわかります。
差し裏の銘には、本多飛騨守こと本多成重(1572~1647)の所持刀であることと同家の立葵紋があります。
成重は徳川家に仕えた本多重次の長男で、康継の後援者であったらしく、同じような銘を刻む作例が多く知られています。
天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの後、豊臣家の養子(人質)となった秀康に従っており(成重は翌年浜松に戻る)、結城秀康とは幼少よりつながりがありました。
また、結城家の養子となり越前北ノ庄68万石を賜った秀康の死後、重臣が対立して越前騒動が勃発すると、慶長18年(1613)に付家老として越前丸岡4万石を賜り、秀康の子忠直を補佐することとなりました。
成重が康継に数多くの注文を行ったのはこのような関係性からであったとみられます。
銘にはさらに、試刀において二つの死体を重ねた「二つ胴」を斬り落とした業物であり、後世まで伝えるべき「末世剣」であると刻みます。
(川見)