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○儀式化する研究発表会
(平成23年9月)
今夏、3年振りに出身大学のゼミ合宿に参加し、この春に大学院に入った修士課程1年1名と、私と同年代の研究員(大学院の年限終了後も籍を残す者)2名の研究発表を聞いた。そこで感じたことがいくつかあり、日頃、同僚と話している事とも通じるところがあるので、ここで記しておこうと思う。
発表の冒頭では、「はじめに」としてテーマの大まかな説明と先行研究の紹介、それらの対立点や問題の所在について語られる。しかし、発表者がなぜそのテーマを設定したのか、その研究をする必要性について、少なくとも私が聞いて理解できるほど十分には説明されない。そこへ共感できないまま本論に入ってしまうため、具体的に何を明らかにしたいのか、ほとんどわからないまま発表を聞くはめになる。そもそもの問題設定が、自分自身の興味関心やものの見方ではなく、先行研究により作られた枠内でのみ物事を捉え、あるフォーマットに沿ってまとめているように見える。他人の研究成果はひとまず脇に置き、自分の頭と眼でひとつひとつの文献史料に向き合った痕跡がなければ、そこに聞く価値を見出すことは難しい。
結局、何を明らかにしたかったのかよく理解できないまま発表が終わる場合もあったが、発表後の質疑応答では、まるで全体を理解できたかのように、参加した院生や研究員から史料解釈や先行研究の理解といった細部の問題について質疑がおこなわれる。「結局その研究により歴史上の何が明らかになったのか?」「そもそもその研究をする意味はどこにあるのか?」、テーマ設定や方法論の是非といった研究の前提となる根本的な問題を問うことはなく、あたかも当初の意味が忘れ去られた儀式のように、一定の「作法」に則って粛々と発表会が進められる。これが現在行われている歴史の研究なのであれば、歴史研究になど意味はない、と言われても文句は言えないだろう。
大学では、学科やゼミの選択の時点で、研究する地域や時代、分野が決められる。これはあくまでその分野を中心に研究するということであって、決して他のことを知らなくてもよいことにはならない。しかし、大学の後輩に限らず、自ら研究分野に枠を作り、まるで他の地域や時代のことは知る必要がないかのような印象を受けることも多い。先行研究で作られた枠内でのみ議論するのであれば、研究はどんどん矮小化し、やがて閉塞していくのは火を見るより明らかであろう。現在の教育では、近代以前に一定の層の人々が有していた基本的な知識や教養が教えられることは少なく、過去の人間活動の所産を扱う歴史研究を行う上でのハードルは高い。教養を広め、深めることで自分なりのものの見方(歴史観)を得ようとする志や地道な努力がなければ、そのような研究は単なる趣味や道楽に過ぎず、社会に対して新たな価値観や意義を提示できないであろう。自分自身にも肝に銘じて、今後の研究に取り組んでいきたい。

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